文系と理系、実学と虚学、人と神

私は昔から進路において文系とか理系とかといった分け方に窮屈さを感じている。

 


中高生の進路選択においては、「数学が嫌いなので文系」や「文学で人の気持ち考えることに意義を感じないので理系」など、しばしばとりとめもない理由で文理が分かれたりする。そのことで数学を毛嫌いする文系や、人文学を軽んじる理系が生まれ、互いの分野へのリスペクトを失う機会になっているだけでなく、セクショナリズムを助長し、バランスのとれた知の獲得を妨げているように思える。

 


それが嫌でいたから、私個人としては大学で建築を専攻して幸運だった。建築学は、歴史やアートといった人文学的領域、構造力学や熱力学などの自然科学的領域、防災や災害復興などの社会学的領域と、幅広い体系からなる学問である。大学では文理ともにバランスよく学ぶことができたが、そのことでますます「なぜ文理を分ける必要があるのか」については疑問が深まっていった。

 

 

 

書店で「文系と理系はなぜ分かれたのか(隠岐さや香)」を見かけ、この疑問をスッキリさせたい!という思いが久しぶりに湧き上がってきた。

本書では、幅広く学問の歴史から最新の動向まで述べられているが、私の中で読後に印象に残ったことを記す。

 

 

 

実学と虚学」という観点の対立が、長らく繰り返し続いてきたことは強く印象に残った。自然科学は実用的な分野であり、人文学は実用性のない学問であるという見方は、私の短い人生でも度々聞いてきた気がする。国語では人の気持ちばかり考えて何になるのとか、実学とされる理系科目でも、実生活に数学は使わないから勉強する意味がわからないなどは学生時代に良く聞いた。

 


ただ、実学と聞いてそもそも思い浮かんだのは、「学校の勉強なんて社会じゃ役に立たない」的な典型的なおっさんの講釈ように、学校での勉強自体を否定するタイプである。

 


書内でも触れられている通り、文系理系の縦割りは産業界との関係も深く、文系出身者は大学の専攻が直接業務に結びついていないことが多いようだ。たしかに私自身がよく見る勉強自体を否定するタイプは、文系出身者に従事している方が多い気がする。

 


理系は実学だとはいうが、理系就職したとしても、自身の研究分野とドンピシャな仕事ができている人はそれほど多くないように思われる。

また土木建築や船舶、機械工学(も?)の分野などでは、技術を活かしたものづくりに向かい合わないといけない。そこでは時として経験がモノをいう職人の世界があり、「学校の勉強など役に立たない」論を聞く場面に遭遇する。

実学と虚学という分け方は、アカデミズムのなかでは自然科学が実学なのかもしれないが、そもそも学問自体が「虚学」として扱う人もいて、この問題はたとえ理系として就職したとしても常につきまとわれている話だという印象だった。

 


そもそも職人の技術の価値を評価できるのが、学問としての技術である。社会の諸問題を評価する人文学はさらに広い範囲をカバーする分野であるのだから、理系技術者はリスペクトするのが自然に思える。

学問に実学と虚学を振りかざして濫用することは、ある種滑稽な感じがした。

 

 

 

それぞれの分野はゆるくつながっていくことは、技術と職人性がうまくマッチした時、魅力的に建築が生まれるように、良い効果を生むのだろうとばかり思っていた。

だから、優生思想に代表されるように、自然科学の歪んだ解釈によって危険な思想が生まれることを危惧する発想は、私自身意識したことがなく本書を読んで初めて感じた。

自然科学を評価するのには思想が伴う。自然科学の分野であっても、評価者の思想で結論は変わってしまう。

 


水素水のブームにしろ、東北震災後の福島や原発の問題にしろ、判断の元になるデータはある程度あるにもかかわらず、熱狂的なブームになった。本書にあるようにある種の全体主義的な思想になった。

 


西洋の学問の歴史は、聖書から思想的に離れていく歴史だったように思う。「人間の立場で考える」主観性と「人間の考えでとらえない」客観性の発展が人文学と自然科学を発達させた。

もしそれら文理が合体するような、新たな分野をつくるのなら、それは神の物語を作るのと同じように強い物語となる。

 

 

 

人が神になろうとするのではなくて、人としてゆるくつながっていけたら、と思った。